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渡邉達生の研究室便り

関門海峡

2006/08/27

 7月の下旬、北九州市での研修会にお伺いした折、関門海峡の傍らにある和布刈神社から、関門海峡を自分の目線で見ました。かつて、橋の上から見下ろして見たことはありましたが、自分の目線で見てみると全く違って見えました。

 大河の流れです。この流れを越えようとする時、歴史が動くのだと思いました。

(下の写真の、手前が九州で向こう側が本州、その間が関門海峡で、上の橋が九州と本州を結ぶ関門橋で高速道路。向こう側の右辺りが源平の戦いの壇ノ浦の古戦場だとか。)

 かつて、万葉の昔、額田王(ぬかたのおおきみ)が、四国松山に停泊し、百済再興のための軍を朝鮮半島に向けて出立する時、「熟田津(にきたづ)に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな」と詠みました。

 今までは、この歌は単なる叙情的な歌だと思っていましたが、「今から、関門海峡を越える」という意気込みが込められていたのだと気づきました。

 さらには、平家の人たちが、この大きな潮の流れに勢いをもらうと、今一度平家の時代が到来するのではないかと読んだからこそ、壇ノ浦の戦いが始まったのだとも思いました。きっと、あの戦いは、平家からしかけた戦いであったのでしょう。

 そして、さらに時代は下がり、江戸の幕末、対岸の長州を攻めようと小倉に結集した九州諸藩の軍は、関門海峡を挟んで長州と対峙します。ところがその大部隊は深夜に海峡を越えてきた長州の高杉晋作に襲撃され、大部隊は九州各地に帰ってしまったのでした。高杉は寡兵でもってこの海峡を越えたのです。そして、江戸時代の終わりの始まりをつくったのでした。 幾多の人々の思いを高めてきた関門海峡にたたずみ、潮風に吹かれながら、私も自分のこれかの生き方に追い風をもらったのでした。実は、私も、21年前の深夜、関門海峡を抜けたのでした。その思いも相まって、感動のひと時でした。数年前、同人誌に、次のエッセーを書きました。

無明の闇
 今から十数年前の4月初頭の深夜、九州は小倉の港から船出をした一隻のフェリーがあった。船は、九州と本州の間の関門海峡を抜け、さらに四国と九州の間の豊後水道を南下した。その船中に、彼は家族とともにいた。家財道具も一緒に。船は、大平洋に出て、東京湾を目指していた。
 From Oita to Tokyo。デッキに出ると、船の外は全くの暗闇。その中を、船のエンジンはゴウゴウとうなりをあげる。それに負けじと、かき立てられる波もザザッツザザッツと音をたて、暗闇に白い飛まつを上げる。空には冴えた北辰が、かすかに望みをつなぐかのように光を放っていた。
 それまで九州の山の中で教員をしていた彼にとって、これから始まろうとする大都会での教員としての生活は、希望に包まれているというより、無限の不安に覆われているというに近かった。そして、彼は、ある国立大学の附属小学校に着任した。それから幾星霜。子どもの卒業アルバムに載る彼の顔は、しだいに老けていくことになる。彼の使命は、わが国における道徳教育の興隆。"人はパンのみによって生きるにあらず。"という先人の言葉がある。生きるための大切な要素、それを成すものが道徳である。
 そのような道徳教育は、日本国民の根幹を形成していく重要なものであるにもかかわらず、教員においてさえもその理解には乏しいものがある。しかし、ひるむわけにはいかない。それが彼の生きるあかしであるから。彼は常々、道徳教育は、子どもたち個人の心の中で、よく生きようとすることへの回帰が先行されなければならないと考えている。しかし、この頃はそうではなくて、決まりを守る人になりましょう...、思いやりのある人になりましょう...、立派な人になりましょう...、等々の呼びかけが先行している。それでは、心はうつろになって、よく生きることの目標を見失い、没個性となってしまう。
 決まりを守る人、思いやりのある人、立派な人等々は、よく生きようとしたことの帰結を、ある人がある価値観をもって表現したものにしか過ぎないのである。それをもって強要しようとしても、心の中身は伴わない。人が生きることはもっと重いものであり、貴いものである。
 そのような生きることの複雑さ・深さを、子どもたちが自分の主体性をもって感じ取り、それぞれに生きる質を高めたいと思えるよう、更に研鑚を深めていきたい。
 それにしても、あの時、フェリー上から見た夜の海は暗かった。今も、彼は、わたしの中で無明の闇を進んでいる。故郷を遠くに置いて。

 関門海峡は、私にとって、人生の再出発の基点でもあったのでした。

 8月、お盆で大分に帰郷した折、再び関門海峡を見たくなりました。3時間をかけ、大分から、再び、関門の潮の流れに会いに行きました。その時の、写真が、冒頭の写真です。

 案内してくださったタクシーの運転手さんが、この海峡で滅んだ平家の人たちのことを親切に話してくださいました。平家の人たちの、追い詰められた無念さは想像するにしても悲し過ぎます。その思いに浸ることも、そこを訪れる人のつとめだと思って、関門海峡を見下ろせる展望台に案内してもらいました。ところが、そこに設置されている説明板を読んでいて、わたしは固まってしまったのでした。

 平家については、木曾義仲が京都に攻め入ったので京都を逃れ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と戦いながらも、ついに滅んだと理解していました。ところが、そこにあった説明板には、平家物語に記載されていることとして、興味あることが記されていました。

 平家は九州の宇佐神宮に友好関係を築いていたので、平知盛(たいらのとももり)が都を逃れていったん九州に本拠地を移し、そこから平家の勢力を盛り返すことを主張、皆がその案に従ったとのことでした。そして、一躍、軍勢を率いて九州の宇佐神宮に行ったそうです。九州には、平家に味方する菊池氏もいました。そこまでは、よかったのですが、宇佐神宮にいた緒方三郎惟栄という武将の裏切りにより、平家は宇佐神宮を終われ、大宰府に行くも、頼みの菊池氏も敗れて、ついに九州を出て、瀬戸内海をまた戻り、一の谷にたどり着いたというのです。その後、平家は寄る辺をもたず、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと、再び九州に向かっての転戦を重ね、悲惨な最期を迎えるのでした。

 説明板には、その張本人が、緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)という名前であると、説明されていましたが、その武将は、わたしの故郷の英雄でした。まさに、目が点になりました。

 平家が頼ってきたことを契機にして、宇佐神宮や菊池氏を向こうにまわして自分の力を鼓舞する機会としたのでしょう。権力者の行動で、時代は妙な展開を見せます。平家は、立ち直るきっかけを失ったのでした。平氏から源氏へという、権力交代のキーマンが、我が郷土にいたとは。

「昭和になって平家の大将の平知盛の墓が見つかったのですよ。」と、タクシーの運転手さんが教えてくれました。さっそく連れて行ってもらいました。とある神社が裏山で秘かに守っていたけれど、大雨で裏山が崩れ、神社まで転がってきたとか。それで、今は、一般に公開しているというのです。それは、平知盛の意思かもしれません。

行くと、その神社は、八幡造りの神社でした。八幡造りは、宇佐神宮の流れを汲むことを証明しています。宇佐神宮は、宇佐八幡神宮ともいわれ、全国の八幡宮のもと締めでもあると聞いたことがあります。この神社の拝殿の屋根の形は、宇佐神宮にそっくりでした。両翼が前にせり出しているのです。平家が頼ってきた宇佐神宮にかかわりがあるから、神社も平知盛のお墓を秘かに守ってきたのでしょう。

 平知盛は、壇ノ浦での戦いで敗者となり、安徳天皇の入水を見届けると、「全てのほどのことをば見つ」と言い、船の上から、体に碇(いかり)を巻きつけて海に飛び込んだと伝えられています。青みがかった古い墓石は、その無念さを言い表しているようでした。

 一方、その戦いで勝者となった義経は、頼朝と不仲になります。緒方三郎惟栄は、その義経を九州に連れて来ようとします。ところが、義経を乗せた船は兵庫の大物浦で大嵐に見舞われ、平知盛の亡霊によって船は難破します。緒方三郎惟栄は捕まり、義経は北陸を通って平泉に逃れていくことになるのですが、今まで、平知盛の亡霊が登場したのは、義経に対してといわれてきました。しかし、そうではなく、平知盛は緒方三郎惟栄に対して怨念を示そうとしたのではなかったのかという気がしてきました。

無性に平家物語を読みたいと思いました。東京に帰ってから、吉川英治の『新・平家物語』を買いました。厚い文庫本で、16巻ありました。とりあえず、3巻を買いました。通勤電車の中では、当分、平家の人たちと一緒です。

関門海峡は、わたしにとって、進取の場所となっています。
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